救急隊員さんを好きになったんです

一方的な気持ちをつづります。隠しながら・・さらけ出します。

子どもの心にも残っていた救急隊員の皆様

次男がホームセンターにて動物を触ってから、10分もしないうちに眼が腫れミミズ腫れになり痛がるかゆがるとなりました。

長男がアレルギー持ちの為、これはアレルギー反応かもしれないと思いました。

様子を見ていたのですが、長男とは違って、白目が飛び出てきたようなすごくグロテスクな感じ・・

病院へ電話をかけて診てもらえるか問い合わせをしていたところ、

本当に冷たい対応と申しますか・・・

確かに重傷な方からすればたいしたことないですが、

電話の対応って、口調の丁寧な方とそうでない方では、焦りや苛立ちの原因にもなりますよね・・・。

 

このやりとりを携帯のスピーカーホンでしていたので長男はすべて聞いていた。

それからやっと話のできる病院の受付のかたにつながり、そこへ向かうことになった。

車でその病院へ向かっている途中、子どもと私はそれをきっかけに、話し方、対応などについて、いろいろな人がいるという話になりました。

どんなプロでも、話し方一つで、人は右にも左にも心が動かされると話したとき、長男は急にこんな話をしてくれました。

「お母さんが夏に倒れたときに来てくれた人は、救急車の人の中でもめちゃくちゃ優しかった!ほんまめちゃくちゃ優しかったから忘れへん。覚えてる。」と。

私はドキッとした。

そうなんだ、子どもにも気持ちは伝わるんだとあらためて私が感じたことは気のせいでもないことがわかった。

それで、そのときのことをなんとなく聞いた。

私「どうやって救急車を呼んだの?」

長男「僕が家の電話から住所を言ってん。それから弟はお母さんのそばにいてて、僕は下で(玄関を出たところで)救急車を待っててん。」

私「そうなんや。」

長男「救急隊員さんが、お母さんは?って聞いたから2階にいてるって答えたら、めちゃ速く走って上がっていった!」

私「それで、お母さんが気づいたらもう救急車の人がきてくれてたんやね」

長男「みんな青い服着てるやろ?一人だけ着てない人いててその人はすぐに一番に上がっていってん!速すぎ!その人が一番優しかった!僕、その人にもう一回会いたい!」

 

詳しく初めて聞いた。

子どもにも本当に優しい人だった。それを子どもは感じていたんだ。

私は、その人のことお母さん大好きになってしまったんだ・・と言いたい気持ちを抑えた。

私は、子どもに「お母さんも会いたいな。でも会えないから、もしお母さんが死んじゃったら、あのときは助けていただいてありがとうございましたって、代わりに伝えにいってね。」と会話した。

 

そう、心に響く人って、私に限らず人の心を動かす力や魅力をもっている。

Tさんに、子どもの中で生きてくれること、ほんとにうれしく思う。

「あのときの救急隊員さんみたいに、こころ優しい強い人になってね。」

それしか言えなかった。

 

 

 

会いたいと思う気持ち

Tさんに会いたいと

いつも感じてこの町で暮らしている。

救急隊員さんは管轄内で暮らしていると聞いた。

きっと今日のこのお天気のいい日も

Tさんは

わかっているよね。

この熱い日差しも

知っているよね。

買い物に出ても、この風景は

きっと見たことがあるんだよね。

どこで

誰と暮らしているのか・・・

結婚しているよね

今日は無事に仕事を終えてるのか・・・

私は

想像だけで

毎日暮らしています。

 

きっと

すれ違っても

 

そのままわからないまま・・・・

 

全部わかっているのに

 

会いたいです

思うだけで

悲しくなってくる

 

そういう気持ちです

それからの日々

その翌日

私は子どもを学校へ行かせる準備を考えなければならなかった。

9月1日にはピアノの発表会もある。

発達障害の子どもには、予定をうまくこなすことが難しい。

難しいという意識は子供らにはなく、目の前の出来事に手をつけるだけ。それに期限があっても、用意ができていなくても、そんなの全然関係なくそんなの・・・

朝から晩まで、やりたいだけのことをする日々。

それだけならまだましだけど、何年も私と夫のもめごとを見続けてきた子どもは、相手の嫌な言い回しをまねてさらに関係がややこしくなる。

発達障害に限らず、夫婦仲が悪いと、子どもにいいことなんて何一つおこらない。その責任は・・・・

もう一生私は背負うことになるのかもしれないと思うほど。

 

子どもは夫かと思うほどになってしまった。

そんな顔で夫の言葉を真似ないでほしい。

もうやめて、黙っていてほしい、逃げたい、子どもは夫に似ないでほしい!!

無理なことだろうけど、

もう私にはそれがとても辛く・・・

 

また過呼吸がおきそうだ。

もうこんなことで救急車を呼ぶわけにはいかない。

夜は車に逃げ込んだ。

暗い夜、私は泣けてしかたがなかった。

消えてしまいたい。もうこのまま私が消えても、この世界は何も変わらないまま、人は明日を生きていく。私が死んでも、この町はずっと続く。何も変わらない。子どもだって大きくなる。私が消えても明日も明後日も人は普通に生きていく。この地球のたくさんの人間のうち、私一人が消えても誰も何も悲しむこともなければ、困ることもない。

地面にすっと吸い込まれるように、消えていく感覚はどんなんだろうと・・・

そればかりを考えるようになった。

学校が始まり、先生が家に来られた。

私を心配してくれて調子が悪ければ無理をせず、子どもらを学校に任せていいんですよと・・

私は自分がどんな状態かもその時はわからなかった。

でも、とても必死に私を心配してくれている姿は目に焼き付いている。

救急隊員さんのときもそう、たくさんの声は入らないけれど、私を見てくれる視線だけは、心の中にしっかり焼き付いている。

私はその場で病院へ電話をして、心療内科を受けることにした。

でも、私はすべてダメになっているわけではない。

仕事は私の生きがいだから、子どものことも夫の事も頭になく没頭できる。

PTAの仕事も放りだすことはできない。私は、私という身体を使って、いまをやり過ごしていくことをしなければならないと思っているから。

心と身体がバラバラなのがわかった。

 

そうして1か月を待って受診をした。

私が発達障害なのか、それとも精神的な病気なのか、どんな状況なのか、検査をして調べてもらった。

夫は私に「きちがい!」という。

夫は私に「お前のすることは誰も正しいとおもってない。お前気づいてないの?」など、私は一体何が違うのか頭で本当に私がおかしいのかと思ってしまう。

だけど、私はどこも悪くはなかった。

私がこう思うのは正常な範囲だとわかった。

 

だからこそ

こどもが夫の真似をすることに

悲しくて悲しくてたまらない日々・・・

子どもをかわいいと思えないかもしれないという不安が生まれ始めた。

それでも、子どもは毎日何かをやらかす。

私は毎日同じことを教え、説明し、また最後には怒ってしまい、また夫に壊滅的な気持ちにさせられ、車に逃げ込み、ただ泣くしかない時間を過ごした。

私が私でいるために・・・

 

救急隊員のあの方のことも、

倒れてから半年、

思い出してひたるような日々はなく、

ただ

ただ

この夫から離れて暮らしたい思いを実現するために、子どもが夫に似てほしくない一心で、

私は無茶苦茶に生きるしかなかった感じだった。

 

そして、3月18日

子どもが兄弟喧嘩で頭を足で叩かれて様子がおかしかったので、電話をかけて病院をあたるうちに救急車を呼ぶことになった。

兄弟喧嘩をそれでもし続けるので、私はいつものようにイライラしながらどうしてこんなことになるのか、嘆きながら子どもを抱え玄関に出た。

 

ちょうど救急車から隊員さんが出てきたので、子どもの頭を見ながら事情を説明しながら顔をあげると・・・

 

言葉につまってしまった。

この目・・

私は一瞬であの日にフラッシュバックした。

この人は・・・・

あの時のような包み込む目ではなかったけれど、

間違いなくあの人だ。

私はぼさぼさの髪に着崩れした服装、花粉で目がかゆくて眼鏡をし、どこのおばあさんかと思うような・・・

救急車に乗り込んで私は急に恥ずかしくなった。

髪を耳にかけ、このドキドキした心臓をおさえ、子どもの事を説明してるのだけど全然言葉になってないような・・

その人は・・・

あの人だ・・・

間違いない。私はこんなに動揺している。顔なんて覚えてなかったのに、でも覚えていた。この人だ。

名前を・・・名札をちらっとみた。

Tさん・・・

子どもは病院へ連れて行ってもらえた。そこで、あいさつもできなかった。子どもを抱えていたし、だいじょうぶかもしれないけど、もしかしてという心配もあったから、その人にお礼を言いに戻ることもできなかった。

だけど、

私はあの8月よりは確実にはっきりと生きている。心配してもらえたあの救急隊員さんのことは私の奥の奥での支えとなっていた。

それが、そのまま眠っていてくれたらよかったのに、

2度目、Tさんと出会えたことで、

私はあの時だけでなく、本当に本当に好きになってしまっていたことに、気づいてしまった。

 

胸がはりさけそうになった。

 

子どもは検査をした結果問題なく大丈夫だった。

 

その日から、もう、支えは私に好きな人がいること・・・になってしまった。

毎日、毎日、Tさんを思わない日はない。

苦しくなってしまうけど、私の変わらない日々の中に、架空のTさんが私を支えてくれる。頑張ろうって気持ちになる。いつかまた逢えたらいいな・・

でもこんな姿の私だから、逢っても気持ち悪いだけだな・・

すれちがっても、何もおこらない。かわらない。

だけど、私はこの人のことを好きになった事実をもう曲げられない。

 

この好きな気持ちをもって、

私はますます老いていくんだな・・と時々思う。

毎日離婚を考えて、毎日子どもはちゃんと生きていけるよう願って、毎日私は鏡を見て、毎日私はTさんのことを思う。

私の最後の恋愛は、一人で現実の中で思いを寄せるだけのものとなっている。

もっと若ければ・・

結婚してなければ・・

せめて気持ちだけは伝えられたかもしれないのに・・・

そう何度も思うけど、

鏡を見ると

しわだらけの、シミだらけの、、ほうれい線もある、、目に力もなく、髪もうすく、頬もおち、

あぁもう見たくないな。私の姿。

思う気持ちと身体のギャップで、もう、悲しくなってしまう。

こんなもんなんだよね。

 

明日。子どもとどう対話するかでエネルギーを使う。

明日。夫の声をどうやったら聞かなくていいのか考える。

明日。Tさんは何してるんだろうと考える。

明日。Tさんのことを好きな気持ちに向き合う。

 

そして、私はまた一つ老いていくんだ。

 

かなわない恋をしている人

いますか?

 

 

 

好きになるってこんな気持ち

倒れたとき、もう自分は精神的にだめになるかもしれないとよぎった。

体が勝手にこわばる・・顔がゆがんでいく・・

子供らは私の顔をさわっている・・

でも何もかも抱えている人生の大きさに耐えられない・・

子どもには心でごめんねを繰り返していた。

 

そこに救急車がきた。

子どもが自分たちで救急車に電話をかけたのだ。

住所もわからないのに、どうやって?

とにかく、私の過呼吸が落ち着いた時に隊員さんが部屋に入ってこられた。

 

事情を説明した。でも、だからといって、病院に行くまでもないのは自分でわかる。

だけど、もう何も考えられない。答えられない。

一人の隊員さんが、座り込んでいる私の前にきて、様子をみててくれた。

私は声を発することも疲れていた。

そこへ夫が帰ってきた。

声がした。

一気に底へ落ちていく感覚になって震えがとまらなくなった。

そのときに、様子を見ててくれた隊員さんは私の目をじっとみたあと、

「車へいきましょうか。」とその場から連れ出してくれた。

救急車の中で私は呼吸を整えた。

その隊員さんは、ゆっくり丁寧に私の目をみて、話を引き出してくれた。

病院に行かなくていいですか?

家にもどれますか?

など、当たり前の質問だけど、その隊員さんの目を見て答えていると・・

涙があふれてあふれてどうしようもなくなった。

後の会話は覚えていないけれど、

その隊員さんは手を握ってくれた。

その瞬間

我慢していた気持ちや、自分に嘘ついてた気持ちや、周りの人への想い、子どもへの罪深さ、自分へのあきらめ、私の存在、頼ることの出来ない孤独・・

そんなすべてが、

この隊員さんにすべて受け止められたような気持ちになった。

なんて心地いい安心感。

この人なら全部出しても大丈夫なんだ・・・

つらかった。こんなふうに大事にしてもらいたかったんだ。

その握られた手から、

私はその隊員さんに倒れ込みたい気持ちを抑えるので必死だった。

戻りたくない現実が時間を刻む。

 

この人を好きになってしまった。

 

ずっと救急車の中にいるわけにはいかない。

家に戻っていった。

隊員さんは帰り際に、何かあったらここに電話をかけてくださいと、紙に心の相談室の電話番号を渡してくれた。

「あぁ、私は心が病んでいる人と思われたんだ」と、私の気持ちはフッと現実にかえってきた。

そして、玄関で「ありがとうございました。」と挨拶をして扉を閉める瞬間も、隊員さんは私を気遣ってくださってか、ずっと目を見続けてくださいました。

そのほんの扉を閉める何秒かに、私は「行かないで!!」と何度も心で思いました。

行かないでほしい。この人の近くにいたいと悲しいほど馬鹿なことを思いました。

 

結婚や、ただ尽くすだけの恋愛や、何かにしばられた中にいた私からすると、

私が本当に心から安らげる人を好きになったことに、

なぜ、今頃こういう気持ちになってしまったのか、どうして今なのか、気づくのが遅すぎたことに、

後悔するばかりでした。

 

あの隊員さんは若いし、私には子どもがいる、

そして、鏡を10年ぶりに自分をのぞき込んだら・・・・

 

そこには苦労じみたシミやしわだらけで輪郭も変わってしまった

情けない私がいた。

 

思うことも許されないいい歳をした私だ。

この出来事は、救急隊員さんの業務だっただけの話で、その安心は作り物であっても、

もう一度私の存在を生き返らせてくれたことは間違いない。

年齢を重ねてしまったからこそ、気づいた私の本当の人を好きになるという気持ち。

もう、あの日の前の私には戻れない。

戻れないけど、この気持ちをどうにかすることもできない。

 

日々の中

 

私は心の底に隠して死ぬまで支えにして生きていくんだと、そう思うようになった。

私は?

何も変わらない生活をする。

離婚をしてくれる日を探して、いつになるかわからないから、

子どもたちをはやく立派にして、

私は

いつか元気なうちにすべてから解放されたい。

自分勝手なのかもしれないけど、

人はどこで誰と出会って、自分を支えてくれるのか予想もつかない。

若く美しいときは過ぎて、老いることしか残されていない肉体なのに、

好きになるという気持ちはずっとピュアなものなんだと。

純粋であるものなんだと。

人は笑うだろう。気持ち悪いと思うだろう。

 

私自身もずっとそう思ってた。

 

50歳を目前にして

最後の恋愛非常事態。

 

そっと静かにこの気持ちは隠していきました・・・。

 

 

 

 

子どもに捧ぐ

人生のすべてをひっくり返しても、子どもの存在だけは守りたい。

私は一人目の子どもを産んだ瞬間にそう思った。

私が特別ではなく、母親になった瞬間には、今までにはない感情を抱くものだろうと思う。

 

それまでは自分が一番大事だった。

それが子どもが一番になる。

すごいことだった。

子育てがとてつもなく睡眠不足の連続で、思うように食事もとれず、泣く我が子を愛おしい気持ち以上に、疲労困憊になっていく。

それでも、子どもが悪いとは思わない。ただ、寝かせてほしかっただけ。自分の時間がほしいからなんて1ミリも思わない。

子どもってすごいパワーをもっている。

こんなにすごいパワーの子どもを一緒に育てたいと思ったから、夜泣きもましになったころ、寝室で寝たいと夫に言ったら・・・

「うるさいから別で寝てくれ」と言われてしまった。

確かに、それは一理あるが、そういう物の言い方があるだろうかと驚いた。

 

こんなことは一つや二つじゃない。

その積み重ねが10年後の今にすべてつながってしまったのだ。

私は子どもが育つのを本当に楽しみにしていた。

心配もその分山ほどあり。それでも夫とはやっていけない思いが強くなり、離婚をお願いし続けた。

私は37歳で出産したので、もう次の出産はリスクが高い。

離婚をしたいけれど、この世に生まれてきた我が子に、できるなら兄弟を・・・と考えていたので、二人目を、狙って狙って・・・一回でお腹に来てくれた。

これで私が早く死んでも兄弟がいれば助け合えると思った。

 

二人目が誕生した。

両手に我が子を抱いたとき、子どもへの愛情は半分こではないことがわかった。2倍でもない。

無量大数無量大数な感じで、比較にならなかった。

 

この子には幸せな未来を!と思った。

 

子どもへの気持ちの日々に、毎日夫のイヤな言葉を聞く毎日。

子どもが大きくなればなるほど、なかなか思うようにいかない子育てに夫は私の育て方が悪いとののしる。

我慢していても、私も人間。時々爆発して頭の中で何かが切れそうになることが増えてきた。

悔しくて泣いて叫んでしまう日も増えた。

夫がお風呂から上がって体を拭いていたある日、私は悔しくて離婚して!と言居続けたら、夫は静かに私や子どものいるところへ来て、バスタオルで私の首に巻き付けしめる仕草をした。幼い子ども二人はそれを目の当たりにした。

殺されると思った。

私は、この夫といれば最後殺される・・・。

子どもの前でそんなことをする人間を私は許さないと思った。

この人から逃げたい。強く、強く思った。

 

またある日は、また口論になった。顔を近づけてきて、私がもう答えられないとこまで追い詰めてきたので、私は肩を押したら、思い切り足で太もも横をけられた。ドンという重い衝撃でしばらく歩けなかった。翌日もあるけない。引きずる足でお風呂に入ると、私の足には手のひらを大きく開いたほどの青い黒いあざができていた。痛すぎる・・・!!

シャワーをあびながら泣けてきた。子どもがいるから、一人逃げるわけにはいかない。どうしてこんな人と結婚してしまったのか。浅はかだった。

後悔と子どもへの申し訳なさで・・

毎日泣けてきた。

子どもは大きくなっていき、私と夫の仲の悪さは日常的になっているのを見ていくことになる。それを避けたかったけれど、毎日、なんらかの形で私に文句つけ、それを知らぬ顔できるほどのできた私でもなく・・

子どもは仲の良い両親を知らない子供になっていった。

そこへ、幼児のころからの発達障害

どれだけ、大変な子育てとなっているか、夫は絶対認めない。すべて、私の子育てが悪いとしか言わない。だから、何も言わないでおこうときめた。

あちこちで発達障害について勉強してみた。普通にこそだてするのと、それほど大きな差はないように思ったけど、そこが、簡単ではないことは子どもが10歳になった今、本当によくわかる。

私が働いて子育てするには、この発達障害をどうやって私が関わればいいのかを悩ますことになる。それでも、夫といることで、私は1日も安心できた日はなく、もう限界となっていくのを感じた。

子どもは親をみる。夫のしぐさや言葉使いをそっくりそのまま真似る。

私を子どもまでが罵倒するようになった。

夫と同じ口調で、攻められると・・・・

次第に私の行き場がなくなっていった。

子どもは10歳と8歳の今・・・

私は初めてもう子どもと離れて生きたほうがいいかもしれないと思うようになってきた。

それでも我が子はかわいい。育てたい。育てる責任がある。大人の私が勝手に子どもを欲しがり、子どもへの自分勝手な想像で子育てをし、夫に似てきたから、そんな理由で一緒に生きていくのがつらいなんて世間も私も自分を許せない。

体も心も身動きができなくなったある日・・・・

 

私は倒れてしまった。

2018年8月26日だった。

毎日泣きっぱなしの結婚生活

結婚とは・・・

こうも苦しいものとは想像もつかなかった・・と言うよりも地獄だった。

 

結婚前から夫の身内からは大反対されていた私。

私の家庭はどちらかというと、女性は自由。

自由であっても、権利を主張するようなガツガツしたものではなく、女性ができることは女性がやることで喜びもあり、また、男性並の積極性も父は妻に対しても娘に対しても尊重してくれるような、相互扶助の家庭に育った私。

 

夫は、完全に妻が三つ指をついて黙って端で待機するような家庭。父親は威厳でできているといっても過言ではない。義母は義父とは仲がよくなくて黙って抵抗して生きている人。私のように、自由に男性との会話をやりとりするのは違うという人。

こんな女の人(私のこと)は合わない(夫にたいして)と言っていたそうだ。

確かにそうだと思う。

 

それでも、私はこども欲しさにすべては結婚すればうまくいくと信じてしまっていたから・・・・

やはり地獄だった。

 

夫とはまともに会話ができない。

「これいいんじゃない?」と言えば、

「でもそれはかくかくしかじか・・だめになるけど、それでもいいのか?」とお返す。

「これ、考えよう」と言えば、

「めんどくさい、うるさいうるさい・・」

人に何かしてもらったら「ありがとう」なのに、

絶対にありがとうは言わない。言ったことがないそうだ。

平気で嘘をつく。昔から嘘でかためてきた。実家にも私が料理がうまいといい、私の親が作ったおかずを、私が作ったと紹介する。

私は、私のままでいたいのに、夫は私を隠す。

子どもが生まれてからも、実家から招集がかかると、39度の熱がある1歳にもなっていない我が子を、寒い夜に連れて集まろうとする。それも17時と言われレば、17時ぴったりにつくように何が何でも出る。5分早く着いても、時間ぴったりと違うので家にはいかない。

夫いわく「5分前やと親が迷惑するから」

私の実家の自営の仕事でも、自営なのでお昼ご飯は多少ずれることもあるのに、12時になると時間だからと一人お弁当を広げる。

難しかった。

私には理解しにくかった。

みんなで仕事をしているのに、一人座ってご飯を食べてる姿・・・

私の父も母も何も言えなかった。

 

とにかく、私は文句しか言われなかった。

子どもが生まれても、少し抱いたらもういらない。泣いてても平気でテレビの歌番組で女の子を見てニヤニヤしてる。

あー、もうきりがない。

働くことも、言われたことしかしない。

私が男だったらと、何度思ったことか・・・・

 

こんなものだと思って頑張ってきたけど、こどもが何か失敗したのもできないのも、私のせいという。うまくいかないのは私が悪いという。私はみんなに家族にうっとうしがられてるのを知らないのかという。

しかしそのうち私の家族が我慢の限界がきて、夫と仕事はできないと言ってもめることになった。私は初めからそうなるとわかっていた。

そのうち夫は盗聴をするようになった。

私はもう気がおかしくなりそうだった。人の話を盗み聞くなんて考えられなかったから。そして、おどされた。親もおどされてるようだ。

私は離婚をずっと言ってきたのに、それは認めてくれない。

意地でも離婚をしないという。

どうやったら離婚をしてくれるのかと聞いたら「ゴキブリ食べたら別居はしてやる」とか、まともに答えてくれない。どんなに真剣に話しをしにいっても、必ずまともに答えは返ってこない。

鼻で笑われたり、離婚用紙を書いても破られてばかり。

私の心は結婚まもなくからずっと願っていながら我慢をしている状態だ。

夫の元彼女は自殺をしている。

夫とつきあっていて精神的に追い詰められて自殺をしたらしい。

その人の気持ちが私にはよくわかる。

夫は、決して声をあらげない。周りの人にはいい人とうつりやすい。

でも、ずっと毎日、私に文句を言う。私が何も言わないでくれたら、なんとか子どもが大きくなるまで頑張れるのに、毎日毎日、帰ってきたら文句ばかり。

部屋を移動するときは、耳元で舌打ち・・時にはニヤッと笑ってため息。

子育ても全く真逆。

ここに書き尽くせないほどの、私のいやな毎日が続いている。

 

こどもはますます大変になり・・・

それが、何かおかしい

伝わらない。教えても教えても、何か違う。

 

そう、こどもは発達障害だったのだ。

結婚をして・・

私が最初の人と破局してからは、

自分の人生はもう一度やり直せるかも・・・

という新鮮な気持ちで結婚相手をさがすことになった。

 

尽くしに尽くした前回の恋愛から、

まだしっかり立ち直りきっていない私を

友達はあたたかく迎えてくれて、

そして、よく戻ってきたと

本当に喜んでくれた。

友達がいて、家族がいて、私の支えとななり応援してくれたこと、

私はこのときほど人ってありがたいと思ったことはなかった。

もうこのみんなを悲しませたくないと決めた。

 

そうして出会った人は

何人もいたけれど、私の望む結婚ができそうな人は

今の夫かもしれないと思って

結婚をした。

 

夫と出会ったとき、

「この人と結婚するんだろうな・・。いやだな。」

そう思ってしまった。

結婚はするんだろうけど、この人のことは好きになれそうにない・・かもしれない・・

という、いま思えば、

これが真実だったのだろう。

私の未来設計図に、夫はかなえてくれそうに思ったから、出会って3日で結婚したいといわれたときは迷ったけれど「それが一番いいのかもしれない」と考えて、私も好きになる努力をしていった。

 

好きになる努力・・・

 

これは本当だ。

働くことができなかった元彼を考えたら、夫は働ける。

車に乗ってでかけるとき、私は助手席でくつろげる。

遊びに出かけても、人込みはつかれてしまわないか考えなくていい。

親に紹介しても、病気の心配をかけなくていい。

そんな色々な小さなことの心配をもうしなくていい。

 

それだけで、私は世界一しあわせになれるんじゃないかと思っていた。

この人をすべて好きになれたら。

 

年齢も私はそのとき34歳。

もうこれを逃したら望む結婚はできないと強く思った。

失敗した20代を取り戻したい。

子どもを産んで育てたいなら、今しかない!

 

結婚をすすめていった。

そうすると、「え・・・」と思うことが少しずつでてきた。

だんだんと結婚前に、とても違い過ぎる何かがあることに気づいた。

それを私はわかっていた。

家族も、それに気づいていた。

私を知ってる友達も、焦らなくていいとやんわり伝えてきてくれていた。

でも、

子どもを産むなら、もう後戻りできない・・!

必死で結婚にすがりついた。

 

そして、もめながら結婚し、夢だったウエディングドレスも着ることなく、

私の望む結婚に文句を言われる結婚生活がスタートした。

それでも私は頑張った、と思う。

 

料理も洗濯も上手ではない私だけど、夫がいつまでも元気でいてくれるようにと本を見て、人に聞いて、仕事をしやすいようにしてきたつもり。

 

でも、結婚前にもめたように、夫は、何かにつけて文句だけ言い、人の話は全く聞いてくれなかった。いつも横になって寝てしまう。子どもが欲しいことも言ってたのに「こどもほしいか?」「もう35歳だし、こどもほしいからって言ってたじゃない!」って言っても、ソファーにあおむけになって目を半分閉じながら「ほほぅ・・さておれはいつその気になるか・・」「いつまで待てばいいの?」って泣いて横で聞いたら、「さあ~てなぁ・・一年後か・・・10年後か・・百年後か・・・」

結婚した日からは泣き崩れる毎日でした。

こちらは真剣に話をしているのに、すぐにうやむやにしたり、返してくる返事は愛情のかけらもない・・・

「すごく」この人を好きで結婚したのではなかったから、

罰が当たったのかもしれない。

この人では、人間としての関係も作れないかもしれな・・!

別れるなら子供がいないうちがいい。

私は、離婚したいと申しでた。

でも・・・

離婚には応じてくれなかった。

夫は結果的に自分の身内に大反対を受けて結婚したので、意地でも離婚はしないと言い張った。それは男の気持ちとしてわかる。

でも、このままでは、うまくいかないとわかっていたので離婚をしたいと強くお願いした。

でも

離婚はしてくれなかった。

 

それならば、元彼といる頃にはかなえてはいけない「こども」を何が何でも授かりたいと、それしか私の生きるしあわせはないと単純に考えてしまって、作業として子どもを作り授かった。

 

もう引き返せない地獄がここからはじまった。